茶房 とげとげ庵

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<<   作成日時 : 2015/11/14 22:46   >>

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 ここのところかかりきりだった文化祭が終わった。即席麺といくばくかの果物によって生きながらえた準備期間。依然として栄養状態はすこぶる悪いものの、精神的には落ち着いた気分でいる。景気よく煎茶を封切れば実に美味い。いつのまにやら熱い茶が嬉しい時季である。季節は待ってくれない。

 先日、中央アジアの某国の文化を紹介する催しが学内でひっそりと行なわれた。私はこの国の留学生の世話役を担当していたことがあるけれど、辞書的な知識はあれども、彼の国の実態を知らない。ならばこの目で見聞するのが一番であろうと、足を運んだ次第である。

 会場の大学講堂は盛況であった。そのほとんどは、おそらく留学生だろう。肌や髪の色が様々で目に映える。親子連れも来場していた。週末に家族で異文化鑑賞とは感心だ。保護者から手厚く文化的投資を注がれたかどうかが、その人の人格形成や教養にどれほど影を落とすか、僕は日々の人間関係からよく学んでいる。

 演目は中央アジアの歌謡と舞踊だった。どちらも素晴らしかったものの、特に印象深かった歌がある。Яллаというグループの”чайхана”という楽曲だ。чайханаというのは、中央アジアで広く親しまれている庶民的な茶屋を指すらしい。歌詞には”На Востоке на Востоке что за жизнь без чайханы”という一節がある。あえて訳せば”茶屋のない人生など考えられない”といった意味だろうか。遠く中央アジアの茶屋で、いつの日か一服してみたいものである。

 世界の文化を僕はまだほとんど知らない。聞いたことのない歌や見たことのない踊り、食べたことのない味、嗅いだことのない香りが地球にはあふれているはずだ。これに気付いただけでさしあたり当分は退屈しないぞ。

 話変わって、ここ数か月にわたって、周囲の友人によって、「死」が目下専らの懸案事項となってしまっている。主な登場人物は4人。その内訳といえば、死にたい2人と亡くなった2人だ。

 1人は同級生で、学業を怠り自堕落な生活を送っては「死にたい」と繰り返している。僕は彼を軽蔑しているし、その言い分には共感も理解もしかねる。けれども彼が大事な友人の一人であることもまた事実であり、その境遇はいささかの同情くらいには値するのかもしれない。

 もう1人はちゃんと大学に通っているが、些細なことで「死にたい」と漏らし、自殺願望をSNSに吐露して周囲を困惑させている。その意図は本人にしかわかるまい。ストレス発散のためか、はたまた構ってほしいのか。いずれにせよ、高頻度で会う人が自殺願望を振りまくさまは精神衛生上きわめて都合が悪い。

 次の1人は、かつて少しだけ接点のあった友人だ。彼女がどんな人物だったのか、今となっては知る由もない。僕が当時所属していた団体で、彼女はいわば唯一の同期だったのだが、二人の仲が深まることはなかった。記憶はごくわずか、僕は彼女に乞われて参考書を貸したり、生物学について話したりしたような気がする。

 進学に伴なって接点がなくなってから1年、僕は彼女が自死したらしいことを聞く。詳細は全く分からないし、彼女が死を選ぶような性格だったかどうかも、恥ずかしながら思い出せなかった。彼女がどんな人物だったのか知る術はもうない。己の無関心が悔やまれる。同年代の死に接したのはこれが初めての経験だった。

 最後の1人は大学の知人だ。ある活動を通じて知り合い、年に数回は顔を合わせていたのだが、今日、訃報が届いた。詳細は知らないけれど、数か月前に亡くなっていたらしい。全く気が付かなかった。Facebookを見返せば、彼女のアカウントは死の直前まで更新されていたし、まだ現存している。生きて迎えることのなかった誕生日には、何も知らない友達から祝いのコメントがたくさん寄せられていた。やり場のない感情がこみ上げてくる。

 「死にたい」と言う人に、何と声を掛ければよいのだろう。唐突に訪れる永遠の別離を見越して、何ができるのだろうか。静かにゆっくりと感情を消化していきたい。

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親になって、ある時、いたいけな子を前に、ふと、自分は生きているだけで価値があるんだな…と思ったことがあります。例えば、稼いでやれなくても、ゴハン作ってやれなくても、ただ添い寝してやれるだけでもこの子は嬉しいのだろうな…、もっと言えば、何もしてやれない植物人間になったとしても、それでも、この子は、そこにいる というだけでもいいから、自分に、生きていてほしいだろうな…と思いました。生きているというだけでもきっと、意味があるんだろうな…と。何か、原点を、教えてもらった気がしました。
意外と単純で簡潔なところに、答えのシルエットでも見えれば、救われるものがあるかもしれません。
少し長く生きてみた中で
2016/03/04 02:27

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